創業期
1940
1945年(昭和20年)9月
会社・組織
宮地恒治・寿男が戦災復興に役立とうとの思いから電気工事請負を目的として高知市に「宮地電機工務店」を創業
1945年7月4日未明、高知市は未曽有の大空襲に見舞われ、創業者宮地恒治の高知市神田の家にも焼夷弾が落ちました。当時警防団長であった恒治は、焼け野原と化した町々の焼死体を鏡川河畔へ運び、後に「まさにこの世の地獄だった」と語っています。その1ヵ月余り後に終戦を迎え、辛い時代はようやく終わりましたが、お国のために全力で尽くしてきた恒治にとって、敗戦は大変なショックだったに違いありません。
来るべき日本の将来を予測して「もはや農業の時代ではない」と確信した恒治は、なんらかの事業への転換を図るべく、NECに勤務していた弟の宮地寿男氏と協議し、終戦1ヵ月後の1945年9月、高知市本町3丁目に電気工事の請負を行う宮地電機工務店を開設。早くも事業への転換の第一歩を踏み出しました。焼け野原の中、復興に向けての電気工事の依頼は多く、創業1年で高知県一番の施工高を誇りました。


1946年(昭和21年)11月
会社・組織
「宮地電機株式会社」 に組織を変更し、電気工事資材の販売を開始
1946年11月、法人に改組して宮地電機株式会社とし、宮地恒治社長以下18人でスタートしました。電気工事材料の入手困難な時期、同業の電気工事業者から材料を分けてほしいと言われるようになり、電気工事材料の販売へと事業を拡大。その企業理念は、「社会への寄与、業界のトップ、従業員の幸福」と打ちたてられました。

1946年(昭和21年)12月
会社・組織
恒治は四国電力の要請を受けて、土佐電気工事株式会社を設立して社長に就任
四国電力の要請を受けた恒治は、土佐電気工事株式会社を設立して社長に就任、県下の送配電線路の建設を進めました。恒治が土佐電気工事の社長を務める間は、弟の寿男氏が宮地電機の社長に就任しました。後に土佐電気工事株式会社は四国他3県の電気工事会社と合併し、現在の株式会社四電工となりました。

1950
1951年(昭和26年)3月
会社・事業所
業務の効率化と一層の飛躍を目的に仕入れの拠点、大阪出張所(大阪府北区神山町64番地)を開設
復興が進む1951年、事業拡大のため大阪市に仕入れ拠点となる大阪出張所を開設し、仕入れ価格の低減、納期の迅速化が図られました。

1951年(昭和26年)9月
会社・事業所
松山営業所を開設
