創業者の若き日
創業者・宮地恒治は、高知県土佐郡鴨田村(現・高知市神田)の地主農家に、父・久寿亀、母・秀の長男として1913年9月7日に誕生しました。昭和初期の日本経済は世界恐慌のあおりを受け、不況のどん底にありました。1934年4月8日、恒治20歳の時に吾川郡伊野町の植田靜と結婚し、翌年3月20日に長女・弘子が、1939年11月28日には次女・雅子が誕生し、経済的な苦しみの中で明るい希望となりました。
恒治は家業の農業に従事するかたわら、鴨田村青年団長や土佐郡連合青年団長などを務め、全国青年弁論大会に高知県代表として出場したこともありました。やがて1941年12月8日に太平洋戦争が勃発、人々は苦しい時代に突入しました。戦争が激化して食糧不足が深刻となり、恒治は地区の実行組合長として食糧増産運動に尽力しました。
1943年の戦争のさなか、3番目の子どもとして長男・彌典が誕生しました。結婚9年目にしてようやく男児を授かった喜びを、母親である靜は当時の日記に「昭和18年1月22日午後1時22分出産、女だと思っていたのに男の子だったので、とてもうれしかった。もちろん、恒治の喜びはこの上もなかった。自分もこれでやっと一人前だと、肩身が広く感じる」と記しています。
戦時中、恒治は警防団長をはじめ、銃後奉公会長、鴨部診療所長などを務め、「銃後の守り」に奔走していました。ますます厳しさを増してきた状況下で、警防団の任務に忙しかった恒治は、妻・靜とともに神田の自宅に残り、年寄りと幼い子どもたちは香美郡の大栃へ疎開することにしました。当時は敵前上陸の噂もあり、悲壮な決意のもとに親子は別れて暮らすことになりました。
※前列右から2番目
1945年7月4日未明、高知市は未曽有の大空襲に見舞われ、神田の家にも焼夷弾が落ちました。当時警防団長であった恒治は、焼け野原と化した町々の焼死体を鏡川河畔へ運び、後に「まさにこの世の地獄だった」と語っています。その1ヵ月余り後に終戦を迎え、辛い時代はようやく終わりましたが、お国のために全力で尽くしてきた恒治にとって、敗戦は大変なショックだったに違いありません。
来るべき日本の将来を予測して「もはや農業の時代ではない」と確信した恒治は、なんらかの事業への転換を図るべく、NECに勤務していた弟の宮地寿男氏と協議し、終戦1ヵ月後の1945年9月、高知市本町3丁目に電気工事の請負を行う宮地電機工務店を開設。早くも事業への転換の第一歩を踏み出したのです。焼け野原の中、復興に向けての電気工事の依頼は多く、創業1年で高知県一番の施工高を誇りました。
